鎖 Ⅱ
私は、この手を離そうとしている。
私は、この手を離してはいけない。
私は、汚れている。
私は、私を汚しているものたちを明るみに出す。
私は、彼らを殺す。
私は、この手を離したくない。
***
私は、主治医いわく「古典的で典型的な」被虐待児症候群をもっている。
***
私は、母子家庭に育った。
母の話をすることは、自然と、私自身の深淵を覗き込むことになる。
一度にすべてをつづることはできない。
深淵を覗き込みすぎるな、と、ニーチェも教えている。
***
私の母の来歴を、私はあまり知らない。
17歳のときに交通事故で父親を亡くし、32歳で美容院を開業し、33歳で私を産んだ。5人兄妹の4番目で、長女(母親の姉)は3歳にして小児がんで死んでいて、だから事実上ひとりきり女性で、だからひとりだけ虐待を受けなかった。
母親の死んだ父親(私の祖父にあたる)は肉体的虐待をする人だった。
母親の兄たちは全員肉体的虐待を受けて育った。井戸につるして木刀で気絶するまで殴る、というようなものが多かった。母親の母親(私の祖母)も暴力を受けていたそうだが、母親に聞いた話ではなく、祖母も一度も語らなかった。母親の弟に聞いた話だ。
母親は30歳頃に私の父親に出会った。暴力団関係の経営するスナックで働いていて、性風俗に落とされるところを拾われたのだそうだ。彼は結婚していたので、母親と不倫関係を結んだ。彼は大手ゼネコンから独立した土木関係の企業をいくつか経営していたため、金銭的にも余裕があった。母親を夜の仕事から抜けさせ、美容師の資格を取らせ、小さな美容院を持たせた。
妊娠が発覚したとき、彼女はスナック時代に出会った暴力団関係の男性と恋愛関係にあったが、人工中絶には間に合わなかったし、なくなく産まざるをえなかった。24時間近い難産で、父親も恋人も付き添わない孤独な出産だった。何度も子供を殺してくれと産婦人科医に言ったがとりあってもらえなかったのだ、と彼女はよく娘に愚痴をこぼした。
娘とは私だ。
彼女は娘を愛せなかったのだ、と、私が彼女の元を完全に去るまで、言い続けていた。ごめんね、と。どうしても無理だったのだ、と。
しかし、彼女を愛した人間も、きっといなかったのだろう。
彼女は金銭に執着した。アルコールやギャンブル、カルトに依存していたため、美容院の収入や、父親の毎月の養育費ではとても足りず、娘を売った。
都内某所、今は電気街とアニメの聖地になっている場所に本社を構えていた児童ポルノショップがある。今もある。そこは、母親の恋人の所属する暴力団組織と関係があった。
私は、幼稚園にほとんど通っていなかった。都内にいることが多かった。
母親は私をポルノに売り、私はそれを当たり前に受け入れた。
生まれるとき、殺されなかった。母親が必死に働いて得るお金を私に使っている。私は稼げない。
私は都内のポルノショップで稼いでいる、という発想はなかった。お金が対価になっていることは知らなかった。
母親が娘を意識して売った相手は、ポルノショップだけ。
ポルノショップで行われたことはまだ書かない。
ポルノショップで働く子供を性的搾取していい、と、母親の恋人は思ったのかもしれない。いや、そうではなく、私がなんらかの雰囲気をもっていたのかもしれない。
娘は母親の恋人に性的搾取を受けた。母親の飲み友達は複数いて、彼らはよく娘を性的に搾取した。
母親に惚れていたらしい、母親の恋人の友人がいた。大阪から北関東に越してきていた彼の一家に、私は長い間、夜母親が飲みに行く間、ときどき預けられていた。0歳から14歳まで、さまざまな家庭に私は預けられたが、彼の一家は特殊だったのか、よく記憶している。
母親の恋人の友人、その妻、その子供は3人。30近い兄二人に20前の妹。兄のうちひとりは激しい虐待のために聴覚を失っていた。彼は2度結婚し、離婚した。2度目の妻との間に娘をもうけ、食事をさせずに死なせた。死んだ子供のかわりに人形がいて、
私の仕事はその人形に食事をそなえることで、それはなんだか怖かった。
母親の恋人の友人、その息子2人は、私を性的に搾取した。そのことそのものより、小学校低学年から始まった「それ」が、その家のダイニングで、オープンにおこなわれたことは、私を深く傷つけたようだ。その家で飼われていたスタンダード・プードルの性的処理をさせられたことも、彼らに殺された真っ白な猫の死体も。
私は、ときどき関西地方出身だと誤解される。
疲れていたり、薬を過ぎた量飲んだりして、気が緩むと、関西訛になるからだ。
そのことが、私にとって、悲しい。
小さな私。
愛ってなんですか?
そんな風に訊かれて、きっとかつて、私は即答できた。
これこれこういうものです、
そしてそれはこれです、って具体的ななにかを提示した。
ほらこれが愛だよ。
それが真で、ほかは全部偽。
神様ってなんですか?
そんな風に訊かれて、きっとかつて、私は即答できた。
具体的な、だれかを提示した。
ほらこれが神様。
ほかは全部偽。
あなたの神様うそのかみさまです。って。
**
今はもう、迷ってる。
かみさまを殺そうって決意したら、かみさまが死んだから。
私の中で生まれた。
神を希求する心が。
そしてひとも、それぞれのなにかを、それぞれの仕方で、なにかを愛している。
私の神は私にしか見えない。だれかの神はだれかにしか見えない。
誰も絶対じゃない、私も絶対じゃない。
誰も、私も、神じゃない。
そんな当たり前のことを。
「私は、私の盃でいただきます」
ちいさい、壊れた、盃。
水はうまく汲めないかもしれない。
いや一滴だって汲めないかもしれない。
それでも、私が水を飲みたいなら、私が使える盃は、これしかないんだ。
私は、私で生きてくしかない。
なんとか。
そして、あなたの盃で、あなたが水を飲むことを、私は尊敬します。
あなたの盃は、私には見えない。
でも、あなたを敬愛しているから。
信頼しているから。
***
聖なるかな、
聖なるかな。
歌はいい。
孤独なひとびとが、喜びをよせあっているように、
なんだか心地好い。
ささやかに、歌をくちずさみたい。
大昔から、
そしてだれかと今このとき、
つながっているような、
エーテルの振動。
私は、
私は、そう、感じる。
呼吸に注意。
主治医に数年勧められてきた本がある。
「マインドフルネス ストレス低減法」
J・カバット・ジン
である。
「君を楽にするのは、呼吸しかない」
「今現在の感覚をありのままに見つめるんだ」
「人は自然に生きる。君も自然に現実を生きることができる」
それらの言葉を、低調なとき、あるいは死にとりつかれているとき、
長いあいだ、5年以上、主治医は教えようとしてくださっていた。
しかし、ずっと聞き流して、あるいは意識的に、読まず、
また指示通りに行わなかった。
ひとつには、「呼吸法」 「瞑想」 「意識の向け方」 という語彙が私に与える胡散臭さ。
ひとつには、そんな気休めで、考え方ひとつで救われるほど甘くない、というシニシズム。
そして、現実の痛みに正面から取り組むことへの漠然とした恐怖、不安。
しかし、さまざまな要素が重なり、さまざまな助けが及び、
そして「マインドフルネス」を実践するために、実践書たる冒頭の本を読み、
今日は実践2日目である。
***
「何もしない」のである。
でも、「何もしない」なんてできない、と知る。
マインドフルネス=注意集中は、何に注意を集中するかといえば、
呼吸。
吐き、吸う。
それをただ、観察せよ、という。
それが、難しい。
息を吐く。
その間にも思いは忙しく迷走せんとする。
「こうすればよかった」「ああならよかった」、と過去へ。大なり小なりの雑念。今、じゃない。
そのことに気づいて呼吸に注意を戻す。
息を吸う。
するとまたもや意識がさ迷い出る。
「これからあれをしよう」「今日これもしなければ」、と未来へ。大なり小なりの雑念。今、じゃない。
そのことに気づいて呼吸に注意を戻す。
難しい。
でも、それでいいのだ、という。
雑念でいい。
彷徨う、それでいい。
彷徨う意識を自覚し、しかるのちに呼吸にまた集中すればいい。
その迷い、そのままを見る。
ただ見る。そのまま見る。
痛み。「ああ、腰が痛い」。痛いのね。そう。見る。
こわばり。「ああ、肩が緊張している」。うん、緊張してるね。そう。見る。
押さえ込まない。
いい。
痛いんだ。
緊張してるんだ。
そう。
どうしようともしない。
見る。見てるだけに徹する。
意識を集中するのは、呼吸。
それ以外は、ただ見てる。
感覚する。
ありのまま。
それを肯定する。
いいんだ。と。
良いか悪いか知らない。どうでもいい。
そこに痛みはあり、そこに怖さはある。
それをそのまま、受け入れる。
痛いんだね。
怖いんだね。
以上。
なかなか難しい。
それに意識を取られて、他者を気遣えていない、と不安になる。
不安になる。不安。そんな風に不安になっている、と、「見る」。
さっきまで(過去)、気遣えてなかった。
そういう事実がある。
それだけ、それ以上も以下もない。
で、今、気遣う。
それでいい。
***
今、を受け入れる。瞬間、瞬間の思いを、痛みを。
それが、重なって、人生になる。
死ぬとき振り返れば、「自分を肯定してきた人生」となっている、そういう結果があるかもしれない。それはなんだか楽しみだ。
**
- 作者: ジョンカバットジン,Jon Kabat‐Zinn,春木豊
- 出版社/メーカー: 北大路書房
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絆
「こうして生かしていただけてるんだもの」
「四肢も五指も残していただけたんだもの」
呪詛のように、自身に叩きつける台詞。
だから私は幸せ、だからまだ幸せ、だからまだ頑張れる、泣くな喚くな怒るな。
私は恵まれている。
生んでいただいて、養っていただいて。
まだ恨むなんてクズなことしちゃだめだ。
感謝しないと。感謝が全てを救うんだ。感謝って素晴らしいじゃないか。
感謝しろよ。
****
父母の恫喝。
感謝、感謝しなきゃ。
痛くないです。
感謝しています。
痛くないです。
****
「目に見える障害があるなんて羨ましい」
「多重人格なんて派手な障害があって羨ましい」
不透明な苦痛に呻く人々がそう唇を歪ませる。
私の苦しみは目に見えないの。あなたみたいに解離できたわけでもないの。理解されないの。大手を振って病人ヅラできるあなたなんて幸せだわ。
そう、難病も怪我も、私が自分で作ったんだ。
私は、似非といわれる自称多重人格のひとびとを嫌ったけれど、彼女たちの叫びがすこし理解できる。彼女らの辛さに比例しない「軽い」病名が、彼女らの口を塞ぐのだ。
****
「友人」たちの苦痛。
疎外。
痛くないです。
私は、理解されているのだから。
****
婦人科の内診が難しい。意識が遠のき、血を流す。
未成熟な身体が、軋んで血を流す。
大人になりそびれた、子供のままの。
大人になりたくない、と願ったかつての被害者を多く知る。
彼女/彼は、そう願うのに反して大人になる身体を、今も、悲鳴をあげて拒絶し続けている。
私も同様に、大人になることを拒んだ。ひずんだ脳に支配され、身体が言うことを聞いてくれたんだ。少女のままの身体が、体重の増加をすら拒絶してくれる。
細くて小さくて「血を流す」。他人格が「たかくうれる」と嘲笑う。
生きづらい?バカを言うなよ。
願いと現実との乖離を知らないくせに。精神の痛みを体現できたくせに。
****
どこにもいけない。
どこにも。
****
私のために泣いてくれた友人が、たったひとりいた。
繊細な感性と友情とを持って、私の痛みに泣いてくれた。
ありがとう、きっともう会えない友に、幸せがあるように。
絆。
私が愛したひとが、たったひとりいた。
大きな痛みを背負い、ひとり立って、清らかに微笑んでいた。
そんなひとと究極的に添えるなんて、思ってなかった。
歪んだ脳と、強く壊さなければ愛せない体。
ありがとう。きっともうそばにいられない。
幸せがあるように。
あなたが幸せになれますように。
絆。
私はどこにもいけない。
だから、どこにもいない。
「やりなおせる?」
I Will Remember You - PS, I Love You - YouTube
時間は巻き戻せないけれど、やり直せないことなんて、なにもないよ。
そんな風に、失敗してしまった、取り返しがつかない、と泣き崩れる人に、繰り返し言っていた。
やり直せないことなんか、ないんだろうか?
ほんとうに?
***
サルの調教師の話を、聞いたことがある。
サルと調教師とは、互いに、深いふかい「信頼関係」で結びつく。
調教師が遠くで怪我をすればサルは餌を食べず、
サルが死ぬと、心を病んでしまう調教師も少なくない。
一声を出せば、互いの気持ちがわかる。
以心伝心。
そして、調教の最後、調教師はサルを、徹底的に痛めつける。
腕をつかんで振り回し、壁や床に容赦なく叩きつけ、頭を蹴り、腹を殴り、頬をひっぱたく。
徹底的に、サルが死ぬのではないか、というほどに、圧倒的な暴力を行使する。
理由はサルにもわからない。
ただ、「時期がきたから」。
サルは、不条理な暴力への恐怖から、一生調教師にはむかわない。
それができない調教師は、結局サルにかまれて、あるいは観客を怪我させて、サルを安楽死に向わせる。
***
タブーの多い子供時代を生きた。
「泣くな」
破れば、こうなる。
「怒るな」
破れば、こうなる。
「食うな」
破れば、こうなる。
「眠るな」
破れば、。
私は泣かず怒らず、食わず眠らぬ子になった。
それが生きる術だった、唯一の。
脳の深部(大脳新皮質よりずっと奥)に刻まれた暴力への恐怖は、
衰えない。
心底、生きててごめん、と思う。
そういう夜がある。
生きててごめん。
生きててごめんなさい。
生まれてきて、ごめん。
生まれてきて、ごめんなさい。
生まれてきてごめんなさい。
***
今夏、脳の中心を巣食うそれらタブーを打ち壊すように、
いろいろなことをさせてもらった。
かき氷、
花火、
夏祭り。
「愛されること」。
それは無意味だ、と主治医に斬られたけど。
そんな儀式に、意味はない、と。
かつての飢餓で傷つけられた脳の奥は、
今の慰撫なんか届かないのだ、と。
あきらめなさい。
そう言った。
君は、普通は子供時代にみんなが得られるもののほとんどを、得ることができなかった。
そのことは悲しい、つらい、ひどいことなんだ。
「みんなつらいんだから」
そんな風に目を背けるな、と。
「君は、ひどい目にあったんだ」
そう、強く言った。
***
「P . S. アイラブユー」という映画。
理由あって、好き、といえない時期が続いたけど。
好きです。
ずっとボンヤリ好きだけど、
好きな理由が、変わった。
主人公への「手紙」に、
「君は僕のすべてだけど、僕は君のすべてじゃない」
というようなことが書かれている。
すねてたりするんじゃなくて、これ、真実だなって、わかる。今なら。
失ったものを、忘れる必要はない。
失ったものを失ったことを、抱いたまま、前を向くんだ。
そういう、メッセージ。
「ボクを忘れて」
そんな少女の台詞で泣いたことがあったけど、
「僕を忘れないで」
そう、今なら言える。
僕を忘れないで。
でも、ちゃんと、君の人生を生きて。
***
やり直せる?
答えは、ノー。
やり直せない。
ぼくらは、何も、やり直せない。
だけど、始められる。
僕らは、なにもかもを、はじめられる。
今から。
痛みを、抱えたままで。
フラッシュバック体験
私は、フラッシュバック、再体験、て用語を頻繁に使う。
でもそういえば、それって何なのか、というのを説明していなかった。
検索をかけたりしてみたけど、私の体験している「フラッシュバック」というものを、ちゃんとわかりやすく書いたものが、ちょっと見当たらない。
私のぼやく、「フラッシュバック」 ってなんなのか?
これを、定義とか正式な専門家の見解とかではない方法で、とりあえず注釈してみておくことにする。
***
ベトナム戦争にまでさかのぼらなくても、悲惨な戦争、ずいぶんありますね。
戦争っていうと、大体の場合、兵士が行って、銃とか爆弾とかで、戦争相手サイドの兵士を殺さなくちゃいけない。
でも兵士だって人間だし、兵務は仕事だし、普通の会社みたいには行かないまでも、ある程度の休日みたいなのをとらないと、うまく任務が果たせない。
それで休暇をとるわけだけれど、(あるいは殺し合いが一応終って、通常任務に戻るわけだけれど)、それでいきなり普通の町には戻せない。
一定期間の「ならし」みたいなのが必要で、普通の町そっくりのモデルシティに住んでみて、それから大丈夫そうなら、自分の本物の町に帰ったりする。
なぜ、兵士に「ならし」期間が必要か?
大丈夫そう、って何が?
これをやる理由が、フラッシュバックです。
フラッシュバックなんてものを社会が認識していなかった時代には、兵士がいきなり本物の町に帰ったのですが、これで凄い数の銃乱射事件が起こる。あるいはそれに準ずる無差別殺人。
どういう風におこるかっていうと、帰還した兵士が、ある朝突然、「敵襲!」って宣言して、だだだだだっと銃を乱射して、その辺の人を撃ち殺しちゃう。それも、一人の特殊な兵士のプライベートな問題じゃない。こういうのが同時多発的に凄い数起こる。
なんなんだこれは、となって、それでわかったのが、
「あ、こいつら、ここを戦場だと思い込んでるのか」
ってことでした。
思い込んでいるというか、どうやらはっきりその目に大量の敵が襲撃してくるのが見えている。
爆弾が破裂する音が聞こえ、被弾して自分のおなかから血とか内臓が噴出す。実際にそうなったのとまったく同じく、痛い。
つまり、敵襲です。
だから、慌てて、というか、断固反撃する。
そのときには、自分が帰還している、というのなんか100%忘れている。
ここは戦場で、
今おれは撃たれたので、
撃ち返して死ぬ。
そんな必死の思いで、彼らは無辜の民にだだだだっ、と発砲しちゃったわけです。
別に変じゃない。戦場で撃たれたから、反撃した。
でも、実際は、撃たれてない。
そこは戦場じゃないし、傍から見ると、いきなり痛がって、銃を出してきて、撃っちゃった、という現象。
難しいのは、「思い込み」ではない、ほんとうに彼にはくっきりとした痛みがあり、彼には内臓や血が見えている、という点。説得できないですね。見えてるんだから。
それで、とりあえず、撃っちゃってもだいじょうぶな、模擬的な町でフラッシュバックをある程度治療か認識(「見えてるし痛いだろうけど、これはフラッシュバックなんですよ」)してもらう。
それは、軍備として今や当然のものです、模擬的な町っていうのは。
****
突然、はっと昔の記憶を断片的に、鮮やかに思い出すことってありますよね。
厭な記憶だったり、楽しい記憶だったり、いろいろ。
でも、それはフラッシュバックではないのです。
例えば(ありえないけど)、小学校で算数の授業を受けている、という体験を出すと
突然、「あっ、私は小学校で算数の授業受けたな、この場面覚えてる」、これはフラッシュバックではない。記憶想起。
じゃあどんな風になるか。
あ、黒板だ、「この机」に座って、「このノート」に、「この鉛筆」で、書かなきゃ。
って、傍から見ると「何もないのに」、いきなり座って、書くまねを始めちゃう。
これが、フラッシュバックです。再体験。
***
それと、私の場合は「解離性フラッシュバック」といって、特徴的なのが、
再体験した記憶を、必ずしも覚えるわけではない。ということ。
思い出したわけではないので、上記のような行動をとったからといって、本人が「小学校で算数のノートとった」という記憶を思い出したわけではないのです。
ほんとうに、シンプルに、ただ再体験しただけ。
なので、再体験終了したら、からっと忘れちゃいます。
「え?私、算数の授業なんか受けたことないよ?」とか言います。本気で。
なので、何回も同じ体験を繰り返しますが、それで記憶として整理されていくかっていうと、ぜんぜん関係ない。
「なんか今すっごいまぶしかった〜」とか感想をいうくらい。
その感想すら、数分でけろっと忘れちゃう。
忘れちゃうけど、その間、わあっと暴れたり叫んだりするので、体への負担は大きい。
フラッシュバック、再体験に関しては、ゆえに、なんらメリットはない。
周囲がおろおろしちゃうだけで。
咳とかのほうがまだメリットがあるかもしれないですね。
困ったもんです。
発症 1
手元に地元の大学病院から貰ってきた診断書と、そして旧いカルテがある。
1996年に記録されたカルテは、黄ばんだ紙にパンチングされてある。
電子カルテに切り替えられてからは、最長5年で、大抵のカルテはdeleteされてしまう。
このカルテは、旧時代の遺物。
院内を、筒が飛び交っていた、ハイテクを模したアナクロなあの頃の。
問い合わせたとき、3つの科に、私の名前のカルテが見つかった。
精神・神経科。
皮膚科。
産科・婦人科。
それが私の、厳密にいえば初診ではないにせよ、
今に繋がる永い闘いの始まりだったのだ。
*******************************************************************************************
はじまりは、12歳。
小学校最後の年に、
私は、妊娠した。
そして腹に宿った「それ」とともに、私の魂は死んだ。
死んだ体は、生きることを拒絶した。
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(この話をする前に、記録すべき事柄が多すぎる。
それを書かずにこれを書いて、私は、このブログまでもが混乱することを恐れる。
しかし、少なくとも、これが私の客観的な「発病」なのだ。)
***************************
11歳最後の11月に、私は最後のイギリス滞在をしていた。
12月に父親が渡英し、年末を彼と共にロシアで過ごした。
そこで、極寒のモスクワにも関わらず、発熱したように体が火照る日が続いた。
よく覚えている。
赤の広場のはずれでホットドッグを齧り、クレムリンに入るところでカメラのフィルムを買い、
トイレに行くと、下着に鮮血が滲んでいた。
初潮を、私はクレムリン宮殿で迎えた。
動転すべきところで冷静になる、元来がそういう子どもだったけれど、
その鮮血の記憶を焼き付けた後、暫く記憶が欠落している。
今思えば、それは別の意識状態への明確なスイッチングだったのだろう。
しかしそれは瑣末なこと。
その後、ロシアを年始3日に発ち、一端ロンドンに帰り、そのままフランスに行った。
父親が日本に帰国し、私はそのままイギリスでの預けられ先で2ヶ月を過ごし、
3月に帰国した。
その間、凡そ4ヶ月。
私は、日々、経血を隠れて処理しつづけた。
恐怖でしかなかった。
何が怖かったのか、わからないけれど。
女になったら、自分が「かれら」に何をされるのか。
子どもだったから許されていた全ての惨い仕打ちを、
今度こそ容赦なく受けるはずだ。
彼らの常套句、
「ママが同じ思いするよ」
「ママはオトナのオンナノヒトだから、これじゃすまないよ」。
ならば。
この体が、「ママとオナジ オトナノオンナ ニ ナッタラ」?
怖かった。
そして、日本に帰った後の2度か3度めの月経のときも、
箪笥の奥や、机の抽斗に、汚れた下着やナプキンを押し込んで、夜明けを待ってはゴミ捨て場に走った。
幸い、その間、母親が自宅で宴会をもつことはなかった。
2度か3度(つまりは6月か)になるまでは、偶然にも、生理中に「そういった暴力」が重なることはなかった。
そして、7月か8月の、生理。
酷い熱帯夜。
悪臭を感じて、夜明けを待てずに、こっそりナプキンを抱え込んで、外にでたところを、母親におさえられた。
まず酷く蹴り倒された。
その後は、ぼうっとしている。
顔が、唇の血と鼻血と、それではない獣くさい「血」にまみれていた。
ナプキンを口に突っ込まれて、玄関の消火器で殴られた。
何か、凄まじく彼女は怒っていた。
とにかく、「わるいことをした」。
それは、叩き込まれた。文字通り。
何が悪かったのか。
かくしていたこと、と思わなかった。
おんなになったこと、だとおもう。
母親も、なんだかそれを酷く、怒っていた。
食べたい、眠い、という欲求が「あさましい」のならば、
もうひとつの、もっとも「あさましい」欲望が、
その象徴が、「これ」なのだ、と。
獣くさかった。
己の腹から出た血が、これほど臭い。
己は、やはり臭いのだ。
悪臭が、己からは、しているのだ。
腐っているのだ。
そう、身の底から、知った。
**************************************************************
その後も、やはり、隠し続けた。
母親には、生理はとまっちゃった、と嘘をついた。
そして、一度隠した月の次から、本当に生理はなくなった。
「ああ。よかった」
隠し続ければ「なかったことになるのだ」。
私はぼんやりと、そう受け入れた。
生理すら、私は止められるのだ。
私は、私の浅ましさを、コントロールできるのだ。
12歳の冬。
私は、どうやら妊娠していたらしい。
**********************************************************
とまった生理のことを、母親が大騒ぎをした。
あんた、肥ったのに!
158センチで48キロ、という体は、確かにそれまでにない、異常な「肥満」と感じた。
重かった。
肥ったから、生理がきた。
学校でも、「体脂肪が30パーセントを超えたら生理になる」といううわさがあった。
肥ったから生理がきたのだから
痩せれば
いいのか。
そう思っていた。けれど、
思っていた、だけで。
私は、やせていなかった。
12歳の、冬。
美容院のスタッフに、婦人科に連れて行かれ、
私の妊娠を、母親でなく、美容院のスタッフが告げられていた。
**************************
そしてその夜、男たちがきた。
***************************
大変な儀式だった。
白くなって昏倒するまで、頭を殴られた。
ぼんやりしながら、腹を踏まれていた。
大変な儀式だった。
階段の一番上に、長かったポニーテイルを引きずっていかれ、
頭の皮が、痛かった。
大変な儀式。
階段から、足を持って、引き摺り下ろされた、一番下の床まで。
何度も。
蹴られた。
階段を上がってくる男。
笑っている男。
真剣なおじさん。
蹴られて、蹴られて、蹴られているうち、
急に、下痢をするときのような痛みが差し込んだ。
トイレか、トイレか、と、皆、嬉しそう。
なんだか嬉しいことなのか、と、
トイレに駆け込み、
ざざざっと、大量の血を排出した。
どこから出たのか、わからない。
どろどろしていた。
不快感や痛みはない。
「すっきりした」
と、おもった。
ぼうっとしていたのだ。
言い訳にすぎない。
鼻の奥が、火薬臭かった。
脳がかきまわされた気がした。
言い訳に過ぎない。
私は、水洗トイレのレバーをおろし、
下ろした瞬間、
「知っていた」。
私が今流すのが赤ちゃんだということを。
**********************************************
ホワイトアウト。
*********************************************
私は電気ポットの湯を全部下半身に被った。
その日から、水以外を一切、口にしなくなった。
痩せれば、生理がなくなる。
生理がなくなれば、人殺しをしなくていい。
いや。
私が生理を一人前の人間として起こす権利はない。
ひとごろし。
********************************************************************************
158cm
25kg
入院時体重。
障害名は「摂食障害」
「重度の拒食症」
私が人間をやめた理由。