夜のこどもたちは夢をみる

子どもに眠りを 大人に愛を

an-non-children

 私なんか死ねばいいと何回思っているんだろう。

今日のことだ。

体がうまく動かない。

それを「優しい」「おだやか」といわれ

そうじゃなくて早く帰って横になりたいと願いつつ

帰ったら帰ったで一晩かかりの煮込みを仕込んだりしている。

私なんか死ねばいい、を予測変換してくれる機能はすごいな、とおもう。

「周囲の安穏と生きている子供がばかばかしかった」

と一番尊敬している人は言う。

けど、私にも君がそうじゃなかったようにはあまりみえなくて

それはたとえば

玄関のドアを開けたらまず親の機嫌を伺わなくてはいけないとか

ときどきやってくる男が「そういう趣味」かどうかを伺わなきゃいけないとか

もっとときどきやってくる父の機嫌をじっと観察しなくてはいけないとか

そういうのがないという意味で。

 

amazarashiの「自虐家のアリー」に刺激を受けて、一篇中編を書いて応募してみた。

歌詞がまんま、だとおもう。

 

安穏と生きている子供ばかりじゃないんだ。

でも、安穏と生きている子供を、私はうらやましいとも思わなかった。

たとえ学業やスポーツで秀でていようとも、

どこかしらで彼らから嘲られていると感じていた。

仲間に入りたいと願った。

どうすれば彼らの仲間になれるのかと。

本当に友達がいなかった。

皆/私の壁はあまりにあつくて

それ以上に皆はあまりに高く遠い場所にいた。

それをごまかすように、成績とスポーツと生徒会を頑張った。

オトナには私がゆーとーせーにみえただろう。

でも結局化けの皮がはがれた。

誰も私を対等になんて愛してくれない。

誰も。

誰一人。

愛しても、それは皮だけ。

表面で娼婦を演じる私を。

そうしてそれを試してためして、

私はやっぱりねと引きちぎる。

最悪だと思う。

安穏な子供が一番いいのですよ。

だってそう言ってるあなたも十分安穏な子供です。

そう言いたくてたまらない。

わからない。きっとみんなそれなりのエーテルのゆがんだ符牒をもって

でもそのエーテルは誰にも伝わらず

 

だからわたしたちは永遠に孤独だ。

 

 

季節は次々死んでいく

季節は次々死んでいく

 

 

 

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「どしゃぶりの雨の中ずぶぬれで走っていけるか」


amazarashi 『もう一度』 - YouTube

 

数年前、MCの極端に少ない秋田ひろむが、

「amazarashiなんて負け犬の聴く音楽なんか聴くなって親父にいわれちゃった」

っていうファンレターのことで「負け犬なんていわせねえよ」って言ったのを聞いたのをときどき思い出してる。

「夕日信仰ヒガシズム」発売以降、仕事以外ではずっと聴いている。寝てるときも流してる。毎朝頭の中流れてる。どれかが。仕事帰り、家事の間。

今、「雨男」が流れてる。

 

「やまない雨はないとか明けない夜はないとか言って明日に希望を託すのはやめた。どしゃぶりの雨の中、ずぶぬれで走っていけるか?」

 

雨降りはだめなのか。夜ばっかりじゃだめなのか。じゃあ雨ばっか降ってる己の人生は、晴れわたってるあいつの人生より低いのか。

雨男はじゃあどうするんだよ、って。

行く場所行く場所雨ふりで、

そいつら「雨男」に、生きてる意味なんかないのか、と。

今はこの歌が回っている。ずっと回っている。

私の行く場所はいつだって雨だ。

だけど、それを憐れみたくないんだ。

晴れ間を待ち焦がれて、今を無駄にしたくないんだ。

雨だってかまわない、目を凝らして、私だけの幸せをつかみたいんだ。

価値観なんかひとつじゃない。

 

amazarashiの力は、こんな風に言葉にしてくれることだ。

言葉にできれば、想いが形に成るから。

形になった想いは、本当に私を救うんだ。

 

秋田ひろむは誰の代弁者でもない、そう自分で叫んでる。

その意味はたぶん、

私の雨には、私が曝されるしかないってことだ。

でもそうやって自分の雨に曝されてる人間は私だけじゃないってことだ。

 

私はおそらく死にたい人間だ。

「死にたい」の通奏低音の中、ときどきノイズみたいに混じりこむ「生きてて楽しい」にしがみついて、だから結局、本当はって訊かれたら反射的に「死にたい」って応えてしまう人間だ。

今だって死にたい。いつだって死にたい。死ねない理由を探して、蜘蛛の糸手繰り寄せるみたいに、

明日バイトだから。

明日学校だから。

明日、なにもないけど。

明後日、そうだ明後日、

そこが限度で、きっとそれ以上先の予定は怖い。

それを「死ねない理由」にしてしまう自分がいるはずだから。

死ねない理由は、人との絆で、それが鎖で、私には苦しくてそして本当の意味での命綱で、

誰の一番でもないくせに、誰かとの細い絆を「鎖」にして、生きてきた。

「ひとりになれたら死ねるのに」

そんな呪詛を、裏返せば、「ひとりじゃないから生きられる」っていう風に裏返す度胸はない。

ひとりじゃないって言うには、私は誰の一番でもなさすぎた。

「君がいるから死ねない」なんて命を託していいほど、私を大事に思う人間は本当はいないんだって知ってたんだどこかで。

それでもその薄い関係性を言い訳にして、死なない言い訳にして、思いとどまる口実にして。死ねない自分の。卑怯な自分の。

 

「明日、バイトだから。

だから、死んだら朝起きられないから。」

 

馬鹿なやつだ。

 

本当は死にたくないくせに。

 

だから手紙を書いた。

私を強く縛り付ける手紙を。

呪いみたいに。

 

どしゃぶりの雨の中

私は

同じどしゃぶりの雨に曝されて泣いてる

バカなあいつに手を差し伸べ続けるって。

いつまでも。

 

 

 

 

三途の河原 素描

 

賽の河原で児どもが何かしている

近づけば石を積んでいる

高く積んだものはいない

こんなにもたくさんの児がいるのに

ひとつ、ふたつ、多くていつつも積めば高い方

どうしたことか

児どもは一心に石を積む

 

鬼が来た

 

児どもは罪を犯した と 鬼が声高に責めたてる

親より先に死んだのだ

貴様の罪は赦されぬ

親に殺された児はことにゆるされぬ

児を殺した母の想いをおもえば おれは涙がとまらぬ と

 

鬼が叫ぶ

 

赦しを乞え

詫びろ

詫びろ

殺された罪をおもいしれ

 

声を嗄らして児は詫びる

 

おかあさんごめんなさい

私を殺させて

ぼくを殺させて

おかあさん

おかあさん

どんなに悲しかったでしょう

ごめんなさいおかあさん

ごめんなさいおかあさん

 

「赦すか馬鹿者」

 

鬼が終にものすごい叫びをあげる

 

怒った鬼

児の積んだ石を蹴り散らす

児のちいさな掌を踏み潰す

血が吹き飛んで ちっぽけな拳はあっけなく砕け散る

 

児は泣きもせず

ああおかあさんあなたはもっと痛かったろうにと叫ぶ

 

児はもう百年、石を暗闇で積んでいる

鬼が一瞬にして蹴散らして

児は永劫

罪を許されぬ

 

誰か殺して遣れ

 

もうあんまり可哀相じゃないか

誰かあれを

もう人の姿をしていないあの児を

 

誰か殺して遣れ。

鏡よ鏡

サルはパックマンで正しく遊ぶらしい。パックマンとはかつて流行したビデオ・ゲームの一種である。しかしサルは鏡を正しく使えるのだろうか?検索してみても判然としない。サルの赤ん坊があかんべえと人間の顔真似をしている写真ばかりである。

サルは鏡を使えるのか?

「他人がどう思おうとかまうな、自分で自分に満足できるのが一番いい」とはよく言われることだ。自分の人生にはじめからおしまいまでつきあうのはひとり自分ばかりなのだから、その通り、自分で自分を好きでいられればそれが十分なのかもしれない。私もかつてはそれが一番で唯一大切なことだと信じて疑わなかった。実際他人の評価をあまり気にしなかったために、いわゆる「アガリ」を経験してこなかった。

しかしどうにも最近よく「アガル」。

人前で長い時間話をするのを生業としているのに、人前に出るのがくるしくてくるしくてどうにもならないことがある。他人にどう思われてもいいじゃないか、とがんばってみても、顔は赤くなる汗はかく、「アガリ症」というのに罹ってしまったようである。

さあ困ったな、とずいぶん悩んだ。そして、まあいいか、と思うようにもなった。

「アガる」サルはいない。いないだろう。サルの世界は自分だけでできているだろう。ネコとそこは変わらないはずだ。ネコなんか今、自分の尻尾を別の生き物だと思って追いかけている。

ヒトはしかし、そうはいかない。

ミラーニューロンというものがあるそうだ。自分が何かする、何かするだけでは終わらずに、自分を見た他人が自分のしたことをどう思うのかを知ろうとする脳神経だという。ヒトはそれを、他人の心を思って行動するために使うのだという。

「君が私を好きになってくれればうれしいと思う」

ヒトだけなんだ、そんな風に思うのは。

他人を見て、自分の命の重さを知る。それがヒトのならいではないだろうか。それをいやしいと感じても、それがヒトの性ではないか。

・・・「おかあさんが、わたしに生きててほしい、っておもってくれる」それがヒトの大地じゃないかと、思う。

私自身が一度でも放り出せば、この生はおしまいだった。それをキャッチしてくれる他人はひとりもいなかった。

私は私をひとり、愛してきた。それが寂しい。

「アガる」ようになってから、人前で話すことが嬉しいと思うようになった。私ではない他人が、私の話を一所懸命に聞いてくれたからだ。やっと、鏡から目をはずせるようになったようにおもう。

 

人間宣言(痛みの時代のお終い)


みんな夢でありました 森田童子 - YouTube

 

骨の奥 
背骨のもっと奥 
からだの いちばん 奥に 
もうひとつ背骨があるようだ、と、整体のせんせいに驚かれた の 

私の 芯 に 
ひどいつよい力が 
生まれたときからずっと今日まではいったままで 
それがもとで 耳が聞こえなくなったり 眼がみえなくなったり 
脚がつめたくなったり してた の 

もう いいよ 、って 
もう、いいよって 
私、はわるくなかった の 

 

私は悪くなかったの

もう いいよ 
こわかったね 
でも  
もう いいよ 
こわかった、こわいね 
でも 
もう いいよ 

 もういいよ

ああ やっと 
こわいまんまの私で 愛されたい 。 

わたしはあいされたい


*** 

 でも 誰か私を  
 誰か 私を 
 さわって、愛しては くれませんか ? 

(「誰か私を」コトリンゴ) 

明日、私はいない。

「死者5000人を達成しました」 
私が住む国は、年度のおしまいにいつもそう誇る。 
今、たった今、私が住んでいる国。 
交通事故で死ぬ人が、年間、5000人を下回るとき、 
日本のエライ人が嬉しそうなんです。 
5000人を目標にしましょうっていうの。 

じゃあ明日、君はもういないかもしれないんじゃないか。 

*** 

ひとり無言で目を瞑る。 

(一瞬で、感情と思考の塊たちが叫びだす。 
(いつも、それに気をとられる。 
(ときには浸入されて侵食されてしまう。 

ひとり無言で目を開く。 

(一瞬で、感情も思考も停止する。 
(私は無 
(私はいつも、ほんとうにはなにも、感じていない。 

ああやっと、静かになった。 
今日はなにを考えようか。 

うん。 

「人は何を人に伝えたいのか」 

ひとつ。 

モノ・ローグ。 
私が私に説明するため。 

ふたつ。 

ダイア・ローグ。 
君が私に説明するため。 


*** 

今日はひとつめのことを考えようか。 

*** 

さて没頭しよう。 
僕は僕の感情の整理のために、 
私は私にものをかたろう。 

さてだから、君はもういい。 
ああだから君はもういなくっていい。 
読まなくっていい。 
もうこの先のお話に、 
君がついて来られなくったって。 

でももしあなたがぼくを好いていてくれるなら。 
そして私の救いに興味があるのなら。 

ねえ、少しだけ。 
意味なんかない僕の無言のおしゃべりにつきあってくれないか。 

*** 

ありがとう。 

(前にすすみたい。 
(大きなモノ・ローグを終息させたい。 

*** 

私は何度も死のうとしました。 

保育園の10月に、お風呂に沈んで、死のうとしました。 
小学校の入学式の日、牛小屋の裏の壁におでこをぶっつけて、死のうとしました。 
中学校の最初の日、放送控室、教頭先生がいなくなってから、彫刻刀を手首に刺して、死のうとしました。 
高校の陸上部の最初の朝練のあと、部室で消火器で頭を殴って、死のうとしました。 
大学が決まった日、中学1年生から溜め込んでいた薬を全部飲んで、死のうとしました。 
去年の夏、自分で首輪をつけた日、ベランダから墜ちて、死のうとしました。 



誰か、私のために泣いてください。 

うそつきはいませんか。 
うそつきはいませんか。 
うそで泣いてくれませんか。 
あなたがわたしの苦しみをわかるなんておもってないんです。 
うそで泣いてほしいんです。 
うそ泣きをしてほしいんです。 
ほんとうにはわからなくっていいんです。 
かわいそうね、かわいそうね、って泣いてほしいんです。 

わたしに安っぽい同情をください。 

*** 

私は、やり直したい、と切望して、 
やり直すために逃げようと、自殺をしようとした。 
ほんとは、やり直すことはできないって思って。 

     「まだ、なにもはじまってねえよ・・・」 

*** 

モノ・ローグ。 

*** 

私を世界につないでくれた手が温かかった。 

生きろ 
生きろ 
生きろ 

と、 
孤絶の果ての愛を持つ人が百回も言った。 
百回、私はその手を切りつけ叩き、焼いた。 

痛みを誰より知る人が、ただ、待って。 

まちがいつづける私は、また何度まちがうだろう。 
それでも今祈るのは、私が伝えられる優しさの確率。 


*** 

ハロー。 
間に合いますか。 

まにあいますように。 
あなたが今夜、生きていますように。 

*** 

鎖 Ⅲ


ICO - Magic is Here - YouTube

 

「宗教にすがるのは弱い人間のすることだ」

「思考回路を宗教に預けて、自分の主体をもたない」

「宗教はすべてカルトだ」

「3大宗教だって発生当初は新興宗教だったんだから、

 オウムも仏教も同じだ」

 

***

 

かつて、私もそう考えていた。

宗教を軽蔑し、宗教を嫌悪し、宗教を憎み、宗教を恨んでいた。

 

***

 

母親は、アルコールとギャンブルと異性交遊、そして新興宗教に依存していた。

仏教系の新興宗教で、そのくせ神道の儀式を行い、幹部に登用されると、死者の口寄せを主とする修行をおこなう。

教祖だったのか、一番偉い人は東北の女性らしい。幹部もことごとく女性だった。北関東支部の幹部に、母親は随分目をかけられていた。毎月数十万円を支払い、神道系のおままごとのような儀式を、その幹部じきじきに、自宅で行ってもらう。

その幹部の自宅は、関西系の家よりは短い期間だったが、私が夜預けられる候補のひとつだった。小学校低学年の頃、1年にも満たない間だったが、毎晩、その家に私は通った。

女性幹部はあまり在宅しておらず、家族構成はよくわからない。私以外にも2,3人の同年代の子供がいたり、老人が何人か泊まりこんでいたりしていたから、誰がその幹部の肉親なのか判然としなかった。ただ、幹部の娘がひとりいた。彼女は20代前半で、おそらく次の幹部候補だったのだろう、胡散臭いタイプの「善行」をする人だった。つぎのあたった服しか着ない。食事は玄米粥と岩塩のみ。洗剤は体を洗うことも含めて、近所の農家からもらった米ぬかだけ。食器は桶に水をためて洗う。

彼女はイルカと泳ぐことを唯一の趣味にしていた。

イルカと泳ぐ仲間が3,4人いた。彼らは彼女の部屋、といってその家にはドアがなかったのだが、そこに集って、ジャングルジムのような、正四面体の骨組みの中で瞑想をした。

イルカと泳ぐには完璧な精神の浄化が準備として必要だ、と彼らは話した。イルカは頭がよく、こちらの不純な思いはすべて瞬時に伝わり、イルカは逃げてしまうし、イルカは傷つくし、逃げた先で死んでしまうのだ、と。不純な思いを清めるために、いくつかの儀式が行われていた。

涙ながらの「不純な思い」の告白、児童用ビニルプール、氷水、短い木刀。告白したものはプールに入って打たれる。そして幹部の娘に抱きしめられ、許される。

子供がときどきそこに連れて行かれる。私も何度か連れて行かれた。そして何度も「告白」をし、泣いた。首筋や頭や背中や腰を木刀で打たれた。

一度、一緒にその児童用ビニルプールに入って、一緒に告白をし、一緒に打たれた男の子がいた。手足が長く、色が白く、私は彼に読書の話をして、彼はそれを聞いてくれた。小児喘息で、知能が低いのだ、と説明されたし、いまだにそう認識しているが、それでも、読書に関しての話をはじめて聞いてくれた同年代の子供だったのだから、きっと彼の知能に問題はなかったのかもしれない。

彼は体が弱く、私の隣で、一緒に氷水をかけられたとき、唇が青い、黒い紫がかった色になっているのを横目で見ていた。

彼が何を告白したのか、まったく覚えていない。私も何かを告白した。私がまず打たれ、泣いているうちに、彼が打たれた。

すぐ隣で、その瞬間、彼が死んだのがわかった。

打ったものたちが、一瞬遅れて静まったのだけれど、私がまずわかった。感じた。空気がかわった瞬間。空気が、「死」に切り替わる瞬間。生がいきなり断ち切られる瞬間。

 

***

 

昔、犬を飼っていた。

白い、優しい犬だった。

散歩中、犬が小雀を見つけ、ぱっと噛んだことがある。

すぐに奪い取ったが、内臓がはみ出していて、酷く苦しんでいた。

小雀を殺してあげなくては、と迷った。

でもすぐに、断末魔をあげて、小雀は手の中で死んだ。

その瞬間の空気の変化。

 

***

 

 

そのさき、その新興宗教にかかわる記憶は、あまり私を傷つけていない。

違う。

私は、それ以上をまだ、思い出していない。