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夜のこどもたちは夢をみる

子どもに眠りを 大人に愛を

鏡よ鏡

サルはパックマンで正しく遊ぶらしい。パックマンとはかつて流行したビデオ・ゲームの一種である。しかしサルは鏡を正しく使えるのだろうか?検索してみても判然としない。サルの赤ん坊があかんべえと人間の顔真似をしている写真ばかりである。

サルは鏡を使えるのか?

「他人がどう思おうとかまうな、自分で自分に満足できるのが一番いい」とはよく言われることだ。自分の人生にはじめからおしまいまでつきあうのはひとり自分ばかりなのだから、その通り、自分で自分を好きでいられればそれが十分なのかもしれない。私もかつてはそれが一番で唯一大切なことだと信じて疑わなかった。実際他人の評価をあまり気にしなかったために、いわゆる「アガリ」を経験してこなかった。

しかしどうにも最近よく「アガル」。

人前で長い時間話をするのを生業としているのに、人前に出るのがくるしくてくるしくてどうにもならないことがある。他人にどう思われてもいいじゃないか、とがんばってみても、顔は赤くなる汗はかく、「アガリ症」というのに罹ってしまったようである。

さあ困ったな、とずいぶん悩んだ。そして、まあいいか、と思うようにもなった。

「アガる」サルはいない。いないだろう。サルの世界は自分だけでできているだろう。ネコとそこは変わらないはずだ。ネコなんか今、自分の尻尾を別の生き物だと思って追いかけている。

ヒトはしかし、そうはいかない。

ミラーニューロンというものがあるそうだ。自分が何かする、何かするだけでは終わらずに、自分を見た他人が自分のしたことをどう思うのかを知ろうとする脳神経だという。ヒトはそれを、他人の心を思って行動するために使うのだという。

「君が私を好きになってくれればうれしいと思う」

ヒトだけなんだ、そんな風に思うのは。

他人を見て、自分の命の重さを知る。それがヒトのならいではないだろうか。それをいやしいと感じても、それがヒトの性ではないか。

・・・「おかあさんが、わたしに生きててほしい、っておもってくれる」それがヒトの大地じゃないかと、思う。

私自身が一度でも放り出せば、この生はおしまいだった。それをキャッチしてくれる他人はひとりもいなかった。

私は私をひとり、愛してきた。それが寂しい。

「アガる」ようになってから、人前で話すことが嬉しいと思うようになった。私ではない他人が、私の話を一所懸命に聞いてくれたからだ。やっと、鏡から目をはずせるようになったようにおもう。