「どしゃぶりの雨の中ずぶぬれで走っていけるか」
数年前、MCの極端に少ない秋田ひろむが、
「amazarashiなんて負け犬の聴く音楽なんか聴くなって親父にいわれちゃった」
っていうファンレターのことで「負け犬なんていわせねえよ」って言ったのを聞いたのをときどき思い出してる。
「夕日信仰ヒガシズム」発売以降、仕事以外ではずっと聴いている。寝てるときも流してる。毎朝頭の中流れてる。どれかが。仕事帰り、家事の間。
今、「雨男」が流れてる。
「やまない雨はないとか明けない夜はないとか言って明日に希望を託すのはやめた。どしゃぶりの雨の中、ずぶぬれで走っていけるか?」
雨降りはだめなのか。夜ばっかりじゃだめなのか。じゃあ雨ばっか降ってる己の人生は、晴れわたってるあいつの人生より低いのか。
雨男はじゃあどうするんだよ、って。
行く場所行く場所雨ふりで、
そいつら「雨男」に、生きてる意味なんかないのか、と。
今はこの歌が回っている。ずっと回っている。
私の行く場所はいつだって雨だ。
だけど、それを憐れみたくないんだ。
晴れ間を待ち焦がれて、今を無駄にしたくないんだ。
雨だってかまわない、目を凝らして、私だけの幸せをつかみたいんだ。
価値観なんかひとつじゃない。
amazarashiの力は、こんな風に言葉にしてくれることだ。
言葉にできれば、想いが形に成るから。
形になった想いは、本当に私を救うんだ。
秋田ひろむは誰の代弁者でもない、そう自分で叫んでる。
その意味はたぶん、
私の雨には、私が曝されるしかないってことだ。
でもそうやって自分の雨に曝されてる人間は私だけじゃないってことだ。
私はおそらく死にたい人間だ。
「死にたい」の通奏低音の中、ときどきノイズみたいに混じりこむ「生きてて楽しい」にしがみついて、だから結局、本当はって訊かれたら反射的に「死にたい」って応えてしまう人間だ。
今だって死にたい。いつだって死にたい。死ねない理由を探して、蜘蛛の糸手繰り寄せるみたいに、
明日バイトだから。
明日学校だから。
明日、なにもないけど。
明後日、そうだ明後日、
そこが限度で、きっとそれ以上先の予定は怖い。
それを「死ねない理由」にしてしまう自分がいるはずだから。
死ねない理由は、人との絆で、それが鎖で、私には苦しくてそして本当の意味での命綱で、
誰の一番でもないくせに、誰かとの細い絆を「鎖」にして、生きてきた。
「ひとりになれたら死ねるのに」
そんな呪詛を、裏返せば、「ひとりじゃないから生きられる」っていう風に裏返す度胸はない。
ひとりじゃないって言うには、私は誰の一番でもなさすぎた。
「君がいるから死ねない」なんて命を託していいほど、私を大事に思う人間は本当はいないんだって知ってたんだどこかで。
それでもその薄い関係性を言い訳にして、死なない言い訳にして、思いとどまる口実にして。死ねない自分の。卑怯な自分の。
「明日、バイトだから。
だから、死んだら朝起きられないから。」
馬鹿なやつだ。
本当は死にたくないくせに。
だから手紙を書いた。
私を強く縛り付ける手紙を。
呪いみたいに。
どしゃぶりの雨の中
私は
同じどしゃぶりの雨に曝されて泣いてる
バカなあいつに手を差し伸べ続けるって。
いつまでも。