夜のこどもたちは夢をみる

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集中より分散、痛みとつきあう道

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熊谷氏の「痛みの哲学」を1週間くらい前に読んだ。
痛みには少なくとも2通りのサポートのしかたがある、という。

片方は「痛み随伴性サポート」。
痛がっている人の「痛い痛い」という言葉ひとつひとつに共感して都度対応していくという方法。
片方は「社会的サポート」。
痛がっている人の「痛い痛い」に直接関与するのではなく、そのことはひとまずおいて、社会復帰の方法や介助を受ける手立てなどを提案していくという方法。

前者はやりやすく、また後者をやっていると「冷たい」と言われることが多いから、たいてい前者をみんなやろうとする。

でも、痛みに効果があるのは実は後者だという。

少しだけ話が変わって、依存・嗜癖の話。
例えばお酒に依存している人は、お酒に「依存しなくなる」ことが自立なのではなく、「別の依存方法をいくつも挙げられるようになる」のが自立、という話。(依存対象の分散)
もっと言うと、「不快」にはいくつも本来種類があって、例えば子供時代にそれを癒してもらった経験が少ない人ほど、偶然薬や酒で「不快」(さみしい・痛いなど)がやわらげられたという経験をしてしまうと、なんでもかんでも「不快」を感じれば全部酒や薬(ほかにも食べ物や性行動)にその解消を求めるという。

この「薬、酒」のような一か所に全部の解決を求めるのが「痛み随伴性サポート」では起こりやすい。(その人に言えばあらゆる不快に応じてくれるので)
一方で、「社会的サポート」では、「薬、酒以外にも不快を和らげる方法があるよ」という紹介をしていくわけなので、そういう集中が起こりにくい。というわけだ。

なかなか興味深い分析だった(のと同時に、配偶者が唱える「痛みの倫理学」とのかかわりをぜひ知りたいと感じた)。配偶者は確実に「社会的サポート」タイプのため、頻繁にあちこちから「冷たい」と言われる。でもそれが「冷たい」のではなく、実は「その人の痛みをわかったふりをしない」という誠実さのゆえだというのを私は知っている。
また配偶者だけではなく、私の周囲にいてくださる友人にはこの「社会的サポート」をするタイプがいる。例えば面白い本を教えてくれる。例えば美味しいものを教えてくれる。例えば優しい衣類を教えてくれる。痛みを和らげる手立てを紹介してくれるサポートをしてくださるのだ。

私は依存傾向にあるはずなのだが、あまり人に依存せずに済んでいるのはそういう所以で、ありがたいなあと思う。

なむなむ。