夜のこどもたちは夢をみる

子どもに眠りを 大人に愛を

鎖 Ⅰ

f:id:mcr_msk:20130222185703j:plain

 

 

父母の生い立ちを、少しずつ語ってみる。

 

父親は、戦中の上州に生を享けた。

父の誕生した頃、彼の父は大陸に出征しており、体の弱い母と祖母が、主に彼を育てた。

+++++++++++++++++++++

彼の母は、貧しい家に生まれ、9歳で奉公という名の身売りにだされた。何人かいた兄弟姉妹は、その際に散り散りになり、今も行方はしれない。

女工を酷使したことで有名な製糸工場で、寝食も碌に許されぬ奉公の果てに心臓を壊した彼女は、地元の名家の子息に見初められ、結婚する。

第一子は虚弱児として生まれ、幼くして亡くなった。

第二子は夫の出征中に生まれ、終戦とともに帰国した夫との間に、第三子を授かった。

第三子が生まれた頃、夫は胃癌で鬼籍に入った。享年28。

夫が逝くのと同時に、夫の兄夫婦が子どもを連れて押しかけてきた。

彼女は、壊れた心臓と5歳の子、そして生まれたての乳呑児を抱えて、母屋の裏に建てられた物置部屋に追いやられた。

ほどなくして彼女は倒れ、歩くこともままならぬ体となる。

++++++++++++++++++++++

 

幼かった父は、自分がひとりで寝たきりの母親と乳幼児とを守らなくてはならぬ、と強烈に自覚した、という。

生活保護を受けたが、敗戦後間もない国に、十分な福祉など望むべくもない。

米農家、酪農家、畑作農家、5歳から15歳まで、彼は働いた。

唯一、母親のほどこす「読み方」「書き方」だけを楽しみに、それを栄養として働き続けた。

母屋にうっかり顔を出せば、「汚ぇ!」「臭い!」と蹴られた。

しかし、従兄の持っていた本や教科書をお下がりとしてもらうため、仕事の合間に眠る代わりに、文字の世界、文学、学問の世界で癒されるために、罵倒や暴力に耐え、彼は時折母屋へ従兄に会いに行った。

学問の世界だけが、彼を救ってくれた。

 

++++++++++++++++++++++++++

 

彼が10歳になるかならないかの頃、母親が酷く具合を崩した時期があった。

普段なら自分の下着だけは自分で洗濯していた母親の下着を、当然のように川で洗った。

下着を水につけた瞬間、真っ赤な水が出た。

女性の月のもののことなど知らない彼は、「母ちゃんが死んじゃう」と泣いた。

泣きながら、経血を洗い流した。

 

+++++++++++++++++++++++++++++++++

 

父は、15で、電機機器工場に就職した。

いくらでもある残業を進んでいくらでもとり、鯨油まみれで巨大なタンクを磨いた。

そうして稼いだ給金のほとんどが、母親の薬代になった。

それでも、給料日には、雑貨屋で林檎をひとつ買った。

一口、それを齧ることだけが、彼の楽しみだった。

 

++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

以下、父の原文。

 

18歳になっていた私は、この時になって初めて相手の正体をまじまじと見た。
十数年間の母の敵、病魔の姿を正面から見据えた瞬間、言いようのない怒り、このまま負けてなるかという闘争心がムラムラと沸いてきた。
 
一晩中、わずかに残された体力で抗い続けた母は、明け方ついに力尽きた。
昨日から駆けつけているわずかな近親者と親切にしてくれた近所のおばさん、祖母と私と弟、長年往診してくれた医師と顔なじみの看護婦。
臨終のお膳立ては整っていた。消耗し尽くした病人が息を引き取る間際は、月齢と関係し、潮の満ち干と関係する。その朝はすべてが整っていた。
 
未明に意識を失っていた母は、時折思い出したように苦しい息の下で「ううっ、」と微かにうめいた。
「ご臨終です。」
このときを予期していたように、一斉に泣き声が起きた。
「おりうちゃん!」
近所のおばちゃんが最初に抱きついた。
医師が脈をとっていた手を放し、首に下げていた聴診器を胸に当ててから、黒いカバンから注射器の入ったステンレスの箱を取り出した。心得た看護婦が手渡された注射器をゴムの蓋をした薬の瓶に突き刺した。
「ちょっと、待ってください。その薬は何ですか」
「えっ、これかい、これは・・・・。一応・・・亡くなった人が・・・・」
・・・・腐らないようにとは言えなかったのだろう。
 
「カンフルをお願いします」
「えっ、カンフルって、もう手遅れだよ、脈はないんだから、」
「助けます。助けるんだよ!ただ死ぬんを待ってただけじゃないか!そんなんは医者じゃない!ベストを尽くせ!」
「カンフルは高いよ」
「バカ野郎!こんな時にまで金勘定か、いくら掛かったっていいから、やれ!一生かけても返してやる」
医師は私の剣幕に気圧されたように注射器を置いた。周囲が泣き止んだ。予想外の展開だったようだ。
「カンフル、用意してあるんだろう」
「いえ、先生がいらないって・・・」
「バカ、カンフルくらい、要らないって言われても持ち歩け!」
医師は明らかに狼狽していた。
「取りに行ってくるが、それまでは誰も手を触れねえで、このまんまにしておけよ」
医師は看護婦に言い置いてあたふたと出て行った。
「死ぬのを黙って待ってるわけにゃいかねぇんだよ」
私は反応しなくなった母を抱き起こした。
「かあちゃん!死ぬな!死んじゃ駄目だ!」
 
私が抱き上げたのは、軽くなったただの骨だった。
 
「死ぬな!」
私は冷たくなっている背中を後ろから抱きしめた。息はなかった。恐る恐る脈を診た。反応はなかった。医師も脈が停止したのを聴診器まで使って確かめていた。
「死んじゃ駄目だ!」
私は、耳に口をつけて怒鳴った。固く閉じて乾いた唇をこじ開けて思い切り息を吹き込んだ。
抱きかかえたまま、右手で心臓のあたりを押した。
万一、心臓が止まったら・・・・怯えながら、もしもの時と考えて、救急医療の知識は頭一杯に詰め込んでいた。
息を吹き込み、心臓を押す動作を数回繰り返したとき、
「うう、」微かなうめき声が漏れた。
「母ちゃん、分かるか、死ぬな、死んじゃだめだ!」
耳に吹き込むようにして叫んだ。
「頑張れ!」
周りの誰かが叫んだ。
やがて、母の目が開いた。
「・・・苦しいで」
「うん、うん、楽にしてやるから、俺と一緒に息をするんだよ、」
私は、母の耳に大きく、ゆっくりと息を吹き込み、「ほーっ」と吐き出した。
「分かるかい、一緒にするんだよ、苦しくっても、少しの我慢だよ、ゆっくりだよ、ゆっくり」
激しく吸って吐いてを繰り返している呼吸を整えなければ酸素は肺まで届かないことを知っていた。
握っていた手首に弱々しい脈が戻ってきた。
医師が戻ってきた。臨終と宣言した病人は、明らかに呼吸をしていた。
慌てた医師は、「助かっちまったんか」と言った。
「バカ野郎、病人を助けるのが医者だろう!助かっちまったとは何だ!藪医者め!」
私は母の病魔と戦っていた。息を吹き返してから一時間が経過した。私と呼吸を合わせていた母は、子どものように私に抱かれたまま眠っていた。
「入院させられるかも知れねえな」
医師が惚けたように言った。
「すぐ手配してくれ」
私が優位に立っていた。
救急車が来た。朝の光の中を私は軽い母を抱いたまま、救急車に乗った。
「勝った。俺は病魔と闘って勝った。」
母を抱きながら涙が止まらなかった。

 

+++++++++++

 

父の母は、この後半年を、大きな病院で、清潔なベッドで過ごし、父に小遣いをねだるまで回復した。

そして、40歳で、亡くなった。

 

 

 

「食べる」

先日、「八日目の蝉」という作品を、映像作品として、観た。

ドラマ版もあったらしいが、映画バージョンを。

そこで、最も激しく私の感情を揺すったのが、永作演じる「誘拐犯」の叫びだった。

「その子は、まだ夕飯を食べていません!」

究極まで張り詰めた母性の叫びとして、これほどの言葉があるだろうか。

+++++++++++++++

宮崎作品は、好むと好まざるとに関わらず

我々日本人にとって、特別な存在である。

私は、宮崎作品からは、全体を通してメッセージを受け取ることが少ない。

それよりも、あるひとつの科白、あるひとつの景色、そういったもの。

そこから強烈に感じるものがある。

千と千尋の神隠し」という作品においても、やはりそう。

ハク、と呼ばれる少年が、ヒロインにおむすびを渡しながら、このような科白をいう。

「この世界のものを食べなければ、君は消えてしまう」

当時、精神の闇の中をさまよってものを食べず

痩せこけて死に掛けていた私に、これほど突き刺さる言葉はなかった。

 

+++++++++++++++++++

 

食べる、ということ。

12歳で拒食症を発症してから17年間の間、波の上下はあれど、

「普通に食べる」ことが困難であるまま、生きてきた。

「食べる」ことに、意味づけをしなければ、という強迫観念。

もっと言おう。

「食べる言い訳をしなくては」と、食行動に強烈な罪悪感を抱いてきた。

 

+++++++++++++++++++

 

先の「八日目の蝉」は、母性を描いた作品だ。

何度も意識を失ってはまた巻き戻して見直し、なんとか観終わっても、

実は大半を覚えていない。

教育学ではじめに学ぶ、「食べ物では安心しないサルが、毛布に安心する」という実験がある。母親は、子を食べさせることよりむしろ、抱きしめてやることが肝要である、という。

しかし、食べなければ子は死ぬ。抱きしめる前に乳を与えればいいのに。

そう思って講義を受けていた学生が私である。

死、というものを、我々がまず身近に恐怖するのは、

「寒さ」と、「飢え」である。

Mの母親(私にとっても母親)は、その勘どころを、驚くほど巧みに利用したな、と感動をする。

(Mの母親に関しては、呼び名を含め、後述する予定)

「寒さ」については、改める。

+++++++++++

「飢え」について。

まず、私の食事は、レンジ解凍した白米だった。

Mの母親は、月に1,2度、米を研いで炊き、冷凍庫に保存した。

一個が茶碗にかるく一杯分。

それを、私はレンジで解凍し、多くはそのままか水をかけてゆるめ、ときどき醤油をこっそり卓上からかけて、立ったまま食べた。

何事もなければ、1日に1食、夕方に、そうやって食事を許された。

ただし、許可制だった。

Mの母親が店舗から居間にきたときを見計らって、

「ごはんをチンしていいですか」

と、ちゃんと気をつけをして、はきはきと言うこと。

大抵は「いいよ」と言ってもらえるので、日常的には儀式のようなものだったが、

少しでもMの母親の機嫌を損ねたり、あるいは私と関係のないところで彼女が立腹したりすると、

彼女は私に「だめ!」といい、ついでに「醤油盗ったの知ってるんだからね、どろぼうだよ、どろぼう!」と、何日前のことでも怒鳴り、どれだけ自分が立腹しているかを言い募り、どんどん激昂してゆき、最終的には掃除機で殴打を繰り返した。

殴打されて腹部や口腔内から出血すると、不思議と「飢え」は治まった。

出血や怪我が軽度の状態で解放されると、何故か余計に空腹を感じた。

そのまま彼女は私を置いて呑みに出かけるのだが、店舗が休日の前夜だったりすると、そのまま翌々日の朝まで帰宅せず、私は何も食べられないまま過ごした。

不思議と、彼女の目を盗んでご飯を解凍する、ということは思いつかなかった。

(銀行強盗をしようと思わないのと同じだ)

「食べさせていただいていること」は、文字通り、命がけだった。

彼女は、「食」という急所を、無意識であれ自在にコントロールし、私を彼女の意のままにできる、という安心感をもったのだろう。

++++++++++++++++++++++

小学校3年生時の身体測定の記録が手元にある。

身長131cm 体重12kg

++++++++++++++++++

当時、ときどき実家で宴会が催された。

(もちろん、その宴会の種類や、その夜のことは別の話になる)

宴会の後、食器を下げたり、洗ったり、は、宴会に参加する若い女性と、私の仕事だった。

食器に残った大量の食べ物を口にすることは「こじき」といわれ、絶対にしなかった。

ただ、唯一、カレーが振舞われるとき。

カレーが付着した小皿を、一枚だけ必死で隠した。(もちろん、できないこともあった)

翌日の夕方、ごはんの許可をもらったあと、その小皿をカーテンの裏から出して、そこに解凍した白飯を出し、カレーの匂いをつけて食べた。

それが、本当に、美味しかった。

+++++++++++++++

実情を知ってか知らずか、実父は、ときどき現れ、私を飾って、外に連れ出した。

当時、県内一の規模の土建企業を7社運営していた彼は、

私を都内や海外の一流レストランやホテルに連れていき、

テーブルマナーを徹底的に教えた。

彼は厳格であり、しかし、私の命に責任をもとうと考えてくれていた、とおもう。

彼は私にとって無条件で絶対の規律であり、憲法だった。

厳しく叱る父であり、しかし許して次の機会を与える父だった。

彼が、もっとも重視したのが「品位」だった。

+++++++

絶対的存在である彼に、酷く叱責された場面が鮮烈に記憶されている。

父に連れられていったデパートのレストランのショーウィンドウに並んだ、

クリームソーダの見本を、ぼうっと見ていた。

突如、彼は強く私の腕を引き、私はその場で転んだ。

「ものほしげに食べ物の見本なんかみるんじゃない!」

 

「あさましい!」

 

その一言は、私を撃ち貫いた。

+++++++++++++++++++++++++++

「食べる」ことは、尊いことだ、

そう思う。

罪深いことだ、

そうも思う。

しかし何より、

 

「あさましいことだ」

 

私は、そう、根底では、思っている。

食べるとは、下品なことだ。

そう思っている。どうしようもなく。

++++++++++++++++++++

親が、子を、食わせる。

親が、子に、食わせない。

子は、親に、餌をねだる。

必死で、ねだる。

自ら飛べないことを謝罪しながら、ねだる。

「生まれたはじめから餌を捕ってこられない、私が悪い」

 

子どもが子どもであることは、それだけで死に値するのか?

 

++++++++++

 

長くなった。

しかし、書き留めておくべき散文。

ただの、メモ。

 

 

 

 

 

 

f:id:mcr_msk:20120906172809j:plain

「過去」

「未来」

それを区別する。

(現在、は幻想だから)

「過去」がどうやっても変えられない。

だから、「未来」を見て生きる。

そのことはどうやら正しそうだ。

むかし、「過去」を区切りなさい、といわれて

それは「過去」なんかどうでもいいのだ、といわれたような気がした。

あの苦しみ、痛み、悲しみ、寒さ、くらさ、恐ろしさ。

そういうもの、――現在を侵食すらしてくる過去のものもの――

それらを、「忘れろ」と。

そういわれた気がした。

そして私は悲しかった。

でも今はそうではないと知っている。解る。

「過去」「未来」

その二つは明確に異なるものなのだ。

「過去を活かそう」とか

「過去の苦痛を乗り越えて」とか

そういう風に、つなげていくことは、どうやら違う。

今、とは、過去の延長であるけれど

同時に、未来そのものでもある。

過去が黒く淀んだ私は、ならば、「今」を「過去の延長」とすることはよそう。

今、それは未来そのもの。

けれど。

過去はどうしようもなく、ならば昇華せよ、と

クリアしてみせよ、と

救済してくれ、と。

そうせがむ。

乞う。

だから。

私は、未来を描き、著し、そして語り続けながら、

ここでひっそりと、過去を語ろう。

今まで語ることがなかったのは、今に繋げてきたためだ。

いまや私とは区切られた過去、それはおそらく遺骨のようなもの。

足の小指、喉の3つ目の骨。

小さなそれらを、私は拾おう。

ひっそりと。

もう必要ではない、それらのカルシウムの破片を。