夜のこどもたちは夢をみる

子どもに眠りを 大人に愛を

Pop Corn Identity.

 

 

ここ1年ほど身にしみて思う。感情というのは持続しないものだ。
だから、といくらでも展開しようと思えばできるのではあるが、
往々にして極論に走る。

たとえば、恋愛。


恋とは感情であり、愛とは状態である、ともいう。
恋は危うい。燃え上がるけれどすぐ消える。恋情のみで結ぶ関係があるとしたら、それは結構早く消えるだろう。
でも実際問題、どうだろう。恋を動機にして関係を結んでも、愛という状態は多少の差はあれきっと生まれはしないだろうか。
だから、恋と愛とをきっぱり切り分けるのはきっと理念上の話なのだ。
逆に言えば、愛という状態に続く恋というきっかけ、火口はたぶん、有用だ。
なくたって愛は生まれるだろう。恋をきっかけにしない愛の状態は珍しいことではない。だから飽くまでもひとつの火口として、有用だということだ。

べつに恋愛論を展開したいわけじゃない。

ちょっと前に結構悩んだのだが、私はすぐに物事に飽きるという特性を持っている。
しかも、物事に興味を持つとき、外的要因に左右されにくい。
ある日突然、内発的に興味を持って、一気にかなりマニアックなところまでインプットして考察して議論して、なのに翌日には冷めていたりする。
熱しにくく冷めやすい。
自覚しているのは、自分の中の感情的な部分と理論的な部分とが、かなりきっぱりと区分けされているということ。
ぱっと感情的に燃えた瞬間、すでに理論的な部分が起動しているのがわかる。
怒りや喜びのような激しい感情ですらそうだ。「今私は非常に怒っているけれど、その根底にある私の中のコンプレックスはこういうもので、この事態のこの要素がそれを刺激したので、私の怒りスイッチが入ったのだな」とか結構冷静に分析している。分析したからといって怒りがコントロールできるわけではなく、ただ淡々と分析している部分を感情的な自我の外側に感じているだけなので、アンガーマネジメントには豪も役に立たないのだが。
私のこういう特性が解離と関係あるのかどうかはわからない。

今、住んでいる地域(被災地の状態が長く続いている)の地域コミュニティ復興とそれをめぐる多方面からの言説、関連した別枠でトンデモ科学やデマ、というあたりで激しい感情が起こりやすい。
でも、プンプン怒りながら、他方では実は非常に醒めてもいる。「訂正しても届かない奴には無駄だろうな」とか、「一部ろくでもないバカが何言ったって、全体の統計を見たら騙されない人間のほうが圧倒的に多いのだし」とか考えている。

ちょっと前だと機能不全家族問題とか女性と子供の貧困問題とか教育格差問題とかをテーマに、怒ったりいろいろしていたのだけれど、それでも常にその裏側では醒めきっていたのも事実だ。
あきらめていた、というのとはちょっと違う。要するに、問題、とりわけ長期化している問題には当然いくつかの要素がからんでいて、かつ、多方面の価値観がそれぞれ完全に破たんしているとは言えない場合が多いのだ。
もちろん問題の前提知識、そこからの問題認識そのものが正確じゃない場合も多々あって、そういうのは残念な気持ちになるけれど。そうじゃない場合。

なんてことを考えている時点で、深くコミットすることができるわけもない。
問題に対して自分なりの立ち位置を定めてコミットするときには、かたちはいろいろにしてもなんらかの当事者性をもって、ある種の偏見すらもって、行動するまで頑張らないといけない。
そういう意味では、当事者性というのは恋のようなものだ、ともいえる。
そんなものなくたってコミットできる、という人ももちろんいる。当事者性なくてもしっかり自分の立ち位置を持って熱意も持って論を展開できる人が、周囲の尊敬する人の中にも何人もいる。でもまれだと思う。

当事者性。

恋のようなもの。火口。
これをとりもどさないと、私はきっと一生どこか冷めて現実にコミットしきれないままなんじゃないか、と危惧している、という話。